かの深き香りに(後編)


【3】

さらに数日が経過して肝試しの期間も半ばになる頃、最悪の事態だと大人達が危惧していたことが起こった。

前方に複数の人間が活動する気配がすると思ったのも束の間、東方の山間駐屯隊と南方の越境者との衝突の場に出くわしてしまったのだ。

暗灰緑色の迷彩服に身を包んだ東方警備隊。茶に薄い橙色の縞模様が特徴の南方。
二様の色彩の固まりが山道を挟んで睨み合い、互いに威嚇の声を浴びせ合っていた。

その光景が木立を透かして見えた途端、カンベエは咄嗟に手近な大木の陰に身を潜めた。
心臓が喉から飛び出さんばかりに強く速く打ち始めた。その痛みに一瞬息が詰まる。
兵達は誰もが刀を構え、すぐにも戦端が開かれそうな緊張がみなぎっている。カンベエが実際の戦闘を目撃するのは生まれて初めてだった。
「どうしよう。ここにじっと隠れているか。それとも、すぐに逃げ出した方が良いか」
だが、どちらをとっても、すぐに見つかってしまうだろう。

心を決めかねている間に、遂に戦闘が始まった。どちらが仕掛けたのかは、隠れていたカンベエには分からないが、ひときわ大きな怒号が合図となって、兵士達の叫び声、罵声、金属が打ち合う高くて硬い音がたちまち辺りに響き渡った。
うるさいどころではない、山が割れるかと思うような大音響と地響きに、カンベエは思わず頭を抱え込み、体を丸くして木の根元にうずくまった。
心臓は相変わらず早鐘のように打ち、今にもこめかみが破裂しそうだった。
しかし、何故か全く恐怖を感じなかった。

その事に気付くと、カンベエはうずくまったままで足許の地面をじっと見つめた。揺れている。
戦闘の衝撃で、地面がそれと分かるほどに揺れている。その震動が、足を伝って体を上ってきた。
全身が揺さぶられ、腹の奥で内臓が揺さぶられた。その不思議な感覚を理解しようとして意識が内側へ向き、斬り合いの渦が自分のすぐ側まで迫っていることに気付かなかった。

しゃがんでいたカンベエの目の前に、突然どさっと大きな音を立てて南方の制服をまとった男の体が倒れ込んできた。
倒れたはずみで握っていた刀が手から転がり落ちた。
カンベエは逃げようとのけぞり、背後の幹にぶつかってしりもちをついた。

目が合った。飛び出さんばかりに見開かれた瞳がぎょろりとこちらを睨み、少年の姿を認めてさらに大きく見開かれた。
兵士は顔をゆがめて何事かを喚き、起き上がろうともがく。
身を守る物を求めて、カンベエは思わず足許に転がっていた刀を手に取った。

生まれて初めて手にした刀は重かった。予想以上の重量で取り落としそうになった程だった。
しりもちをつき幹に背を預けたままでその柄を両手で握りしめ、呻きながら腕を伸ばしてくる相手に刃先を向ける。
その刃先から柄の根元まで、刀身には赤黒い汚れが付いていた。これが人を斬った跡かと思うと、緊張で両手に力が入る。
兵士は起き上がれず、カンベエも刀を突きつけたままでどうして良いか分からず、ふたりはそのままで睨み合った。

睨み合う内にカンベエの緊張が更に高まり、両の腕が小刻みに震え始めた。その震えが柄を握りしめる指に伝わり更に刀へと伝わって、腕と刀身が一体の物として震え始めた。
カンベエはぎょっとして刀を放り出そうとしたが、指は柄を握り込んだまま固まって動かせない。
震えはさらに増し、それに呼応するかのように筋肉の緊張も増し、身動きすら出来なかった。

「何をぐずぐずしている!小僧、早く逃げろ!」
いきなり耳許で大声を浴びせられ、カンベエは我に返った。
見れば目の前の敵は駆けつけたらしい灰緑色の制服に止めを刺され、最早こちらを睨んではいなかった。
「お前はカゲトモだな。その子供が何故こんな所をうろついているのだ!」
彼はカンベエの強張った指をこじ開けて刀をもぎ取った。
「震えているな。顔も真っ青だ。死にたくなければ、さっさと村へ帰れ」
そこへ新手が斬りかかってきたので、彼はカンベエの体を庇うように突き飛ばして応戦に出た。
転がされたカンベエが振り返ると、切り結ぶふたりの体越しに戦場が見えた。

戦いの場は、カンベエのすぐ傍らにあった。
最初に目にした数の半分が既に倒れ、あとの半分がいまだ戦っていた。
山道の土を蹴り上げながら、あるいは木々の間を駆け巡りながら、茶色と緑色の影法師が絡み合い、ぶつかっては離れを繰り返している。
影法師が躍(おど)る度に金属の打ち合う甲高い音や男達の呻き声が響き渡った。その有様は、狩人と獣の戦いのようにも見えた。

「狩りなら俺だって出来る」
カンベエは無意識に地面を手探りし、取り上げられたはずの刀を探した。ハッとして手を引っ込める。
「俺は何をやってるんだ。狩りだって?たまに岩ネズミを仕留めるくらいの腕前で、あそこに飛び込みたいのか?」
大きな戸惑いに襲われ、慌てて元いた大木の陰に身を潜める。

心臓が祭りの大太鼓のようにドクンドクンと打ち始めた。
その響きに載って、体の奥底から何かが湧き上がってくる。
何とか鼓動を静めようと我が身をかき抱いてみるが、抑えることは出来なかった。
刀を失って空になった両手は、今自分の体にしがみついてもまだ震えている。
その震えは一体どこから来るのか。
戦場の恐怖からではないことは、いまやカンベエ自身にも良く分かっていた。

「俺は…あそこに行きたい。戦闘に加わりたい!」
あたかも舞台の主役が登場するかの如くに厳かにせり上がってきて我が身を震わすのは、戦いに対する欲望だったのだ。
何でも良い、武器が欲しい。さっきの刀はどこへ行った?そうだ、背中の袋には…
いや、駄目だ、駄目だ。出来るわけがない。俺は村に残ることを選んだのだぞ!

戦場の真っ只中で、少年は己の本性と対峙していた。
ふたりの自分が互いを凌駕しようと争っている。
カンベエは、この場に留まって闘争を続けたがる自我を抑え込もうと躍起になった。しかし、内側から湧き上がる欲望は急速に膨れ上がり、するりと着物を脱ぎ捨てるようにあっさりともうひとつの自我を振り払った。

そこに立ち現れた自分の姿は、想像を絶する怪物のようだった。
断崖絶壁のようにあるいは無限の洞穴のように、暗黒へと続く大口を開けて全ての命を飲み込もうとしていた。それは人の血を欲し、犠牲を探し求めてそこいら中をうろつき回る。
おびただしい血が流され、カラカラの畑地に降りる露のように跡形もなく怪物に吸い込まれてしまうのだ。
その光景は少年の心を押し潰した。

「あぁぁ…、うぉ――っ!」
悲鳴とも呻きともつかない叫びを上げると、カンベエは逃げ出した。
無我夢中で、道であろうが無かろうが、木々の隙間だろうが藪だろうが、体を通すことの出来る空隙ならどこへでも飛び込んだ。
走りながら、すぐ背後に恐ろしい存在が迫っているような恐怖を味わっていた。髪を振り乱し冷や汗で背中を濡らしながら、憑かれたように力の限り走り続けた。
「逃げなければ。逃げなければ!」
無意識の警告が繰り返し繰り返し少年の口からこぼれ落ちた。

しかし、逃げ切ることは出来ない。恐怖の的は自分そのものなのだから。
分かってはいる。だがそれでも何とか振り切ろうと、カンベエは、走っている事すら分からなくなるほどにひたすら走り続けた。


どの位走り続けたのか。
下草に隠れた大木の根に気付かずにつまずき、その拍子に幹に当たって跳ね飛ばされ、さらに何本かにぶつかってから、ぽんと開けた空き地に転がり込んだ。
そこは、数日前に出会った白い花の群生する場所だった。あわてて起きあがり、太い幹が重なり合った陰に身を潜めてようやく息をつく。
口を開け大きく肩を上下させて空気を呼び込もうとするが、喉が引きつり胸が痛んで散々にむせてしまった。

ようやく呼吸が楽になると、物を考える余裕が戻ってきた。
服があちこち引き裂かれ、体中が汚れ傷ついていた。背負い袋も失くしていた。
ひくつく鼻腔を通して、花の香りが肺へと侵入して来る。
見上げる花の白さと甘い香りは以前と変わらなかったが、今のカンベエにとっては言葉にならない悲しみをもたらした。
あの花は、この森の豊かさは、最早自分の手の届かない所へ行ってしまったのだ。

「俺は選んでしまった。選ばないと決めた方の自分を」
膝を抱えてその場にうずくまると、涙が溢れてきた。
「誰かが死ぬのも怪我をするのももう沢山なのに。誰の親も兄弟も、もう絶対に失いたくないのに…」

何かの気配がして顔を巡らす。
涙を流す自分のすぐ傍らに、刀を手にした新しい自分が寄り添っているのが見えた。
その姿は初めて見るはずなのに、何故か馴染みの顔だった。

「俺は、…選んだ訳ではないのか?」
きっとそいつはずっとそこにいたのだ。

樹間を渡る風がたちまち涙を乾かし、頭上でさわさわと葉ずれの音を立てた。
顔を上げて再び花を眺める。
あの花を携えて帰ることはもう出来ない。今の自分にはアサギに花を渡すことは出来ない。
自分が村にもたらすことの出来る物は、何一つ無くなってしまったのだ…


【4】

一夜を花の下で過ごしたあと森の出口付近まで戻ってから、カンベエは残りの日数をそこで待った。
肝試しの期間を満了したかったこともあるが、その間に自分自身を見つめ直せば別の道、異なった方向が見つかるのではないかと淡い希望を抱いたのだ。
しかし、時間は空しく過ぎていった。


村へ戻ると、思いがけない歓待が待っていた。
村に近付くと見張りに立っていたらしい者が中へ駆け込み、代わって村長を先頭に村人達があたふたとやって来たのだ。
「今までどこにいたのだ!皆心配していたぞ」
無事で良かったと女達は涙を滲ませていた。
「村長。これは一体何の騒ぎですか?」
「何を呑気なことを。東方の駐屯隊から連絡が入ったのだぞ。『越境者との衝突に少なくともひとり、子供が巻き込まれた。戦闘のどさくさで見失い、その後の生死は不明』とな」
あの時の兵士が連絡したのだろうかと、カンベエは自分を庇ってくれた男の顔を思い出す。
では彼は生き延びたのだ。

「もうその頃には多くの者が戻っておったし、残りの者もその後ほどなく帰ってきた。だから、お前がその巻き込まれた子供に違いないと、皆がどれ程心配したことか」
村長の言葉に、何だ、みんな途中で切り上げて帰って来ていたのかと、カンベエは複雑な思いにとらわれた。
森の奥深くまでは誰も行かなかったのだ。
では、自分もそうすれば良かったのだろうか。そうすれば「あいつ」と出会わずに済んだのだろうか。

「ともかく無事で何よりだ。詳しい事はあとで聞くとして、まずは家に帰ってばば様に顔を見せてやれ。お前が戻ったと使いをやったから、今頃は待ちかねているだろう」
「はい。ご心配をおかけしました」
皆に向かって頭を下げると、カンベエは祖母が待つ自宅へ向かって歩き始めた。

途中、それとなくアサギの顔を探したが、どこにも見えなかった。
あいつのことだから、恐らく自分の無事を聞いてどこかで密かに喜んでくれているだろう。あるいは、ばば様に付き添ってくれているのかも知れない。
カンベエは、戻って来るかと問うたときの少女の顔を思い浮かべようとして、あの時は逆光で表情が見えなかった事を思い出した。


その年も名ばかりの雨期が来て、ジリジリと陽に焼かれる夏が過ぎ、ようやく暦が秋の入りを告げたが、暑さはいっこうに衰えなかった。それでも太陽が出ていない時間帯にはわずかな風にも涼しさが感じられるようになった。
その風に夜を徹して吹かれながら、カンベエは商人の訪れをひたすら待った。
待つ間、自分の本性がいつ動き出すかと気が気ではなかった。桶に張った水に映る顔は最早村の小僧ではなく、手の中には常に、見えない刀の重みがあった。
春芋の袋を担いでいた少年はもうどこにも存在しないのだ。


さらに日が経ち、昼間の風にも涼しさが感じられる頃になって、ようやく飛行艇の機関音が村の上空に轟き渡った。
しかし、忘れたのかそれとも焦らしているのか、商人は少年の存在を全く無視していた。そしてひと通りの商いが済んだところでようやく声をかけてきた。

「やあ、少年。答えは出たかね?」
「あんた、本当に俺をここから連れ出してくれるのか?」
性急なものの言い方に、商人はいかにも驚いた顔になった。
「全く君らしくないな。肝試しで何かあったのか?」
「俺は…、俺の中で何かが爆発しそうなんだ」
「ほうら言っただろう、君にはサムライの素質があると。きっとそれが目覚めて成長したがっているのだよ」
「そうじゃないんだ。俺がここを出たいのは、サムライになりたいからじゃない。抑えられそうにないんだ。このままずっと村にいたら、俺は…」
「村にいたら?」
的確な表現が思いつかず、カンベエは言い淀む。商人が助け船を出した。
「このまま村にいたら、自分は駄目になると言いたいのかい?」

「…その反対だ。駄目になるのは村の方だ。俺は…何故なのかどうやってなのかは分からないが、いつか村をめちゃくちゃにしてしまいそうで恐ろしいんだ!」
一瞬言葉を失った後、商人は宣言するかのように厳かに口を開いた。

「これこそサムライだ。私の目に狂いはなかった」



【終】

「カンベエ様?…カンベエ様、寝てしまったのですか?…やれやれ。また今度も、子供時代の話を聞き損なった」
小さなため息をひとつつくと、シチロージは首を伸ばして唇を触れ合わせた。それからカンベエの胸に額を埋めるように寄り添う。
程なく静かな寝息が聞こえ始めた。

それをじっと待っていたカンベエはシチロージが寝入ったのを確かめてから、次第に重みを増していくその体にそっと腕を回した。首を曲げてお返しの口付けを与える。
眠ったふりをしている間に、互いの唇もそれがもたらしていた体の熱もすっかり冷めてしまっていた。
可哀想なことをしたかと少しばかり胸が痛む。

(この手がひとたび刀を執れば、敵の体を捉え戦艦すらも斬り通す。だが同じこの手が、このように愛しさを込めて人を抱(いだ)くことも出来るのだ)
今宵が最後かも知れぬという覚悟は無論常にあるが、サムライの性(さが)とは子供の頃に想像した以上に深く複雑で、我が事ながらいまだにその全てを見通すことはかなわない。

しかしそのような自分でも、理解できることはある。例えば…
「白い花とその芳(かぐわ)しさがもたらす豊かさとは、どこにあっても変わらぬようだ」
闇の中、ぐっすりと眠り込んで返事をしない相手に向かってカンベエは囁きかけた。
「そうであろう、シチロージ…」

腕の中の、あの花びらのように白い額に鼻面を押しつけて微笑む。
それからようやくカンベエも本物の眠りに落ちた。ほんの束の間のものではあったが。

                                 (完)




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