かの深き香りに(前編)
【序】
「香りが…」
ふと上げた視線を泳がせてシチロージがつぶやいた。
「香り?」
カンベエも顔を上げ、耳を澄ますかのように小首をかしげる。
「確かにまだ匂っているな」
「昼間見た泰山木(タイサンボク)ですよ。この山ではあちこちに大木が繁ってましたが、こんな夜更けにも強い香を放つとは思いませんでした」
「深夜に起きておるのは我らだけではなかったな」
闇に慣れた目に暗がりを透かして、上気して薄桃色に染まった耳たぶがぼんやりと浮かび上がっていた。
口を寄せてカンベエがふふっと笑うと、シチロージはくすぐったいと言って顔を背ける。
剥き出しのうなじがぼうっと目の前に浮かび、そこへカンベエが唇を当てると、ひくりと小さく震えた。
ふたりは今、山中に隠れるように設営した小型のドーム型テントの中で、薄い保温シートにくるまり抱き合っていた。
何かあればすぐに動けるようにと周囲の気配に神経を研ぎ澄まし、軍服をはだけるのも最低限必要なだけに留め、その上でなお、短い夜のひとときとお互いとをひたすら惜しみ合っていたのだった。
時は春の終わりと夏の始まりのちょうど中間の季節。
はるか南部にあるとはいえ、山間部では深更の気温は下がり、寄せ合う互いの体温が唯一の温もりだった。
夜が明ければ、いよいよ境界線に接近する最後の行程が待っている。
それまでのほんのつかの間の、最後になるかも知れない穏やかな時間を、いましばしと…
「カンベエ様?」
一瞬呼吸を止めて黙り込んだカンベエを訝しみ、シチロージは暗がりの中を手探りして相手の閉じられた唇に触れた。
「どうかしましたか?」
「…なぜか昔を思い出してしまった」
「昔とは?」
「故郷のことだ。俺はまだほんのガキだった」
「カンベエ様の子供時代のこと、話して下さい」
「こんな時にか?」
「はい。ほとんど聞かせて貰ったことがありません」
カンベエは自分の口許に置かれたままのシチロージの細長い指を片手で包み込み、もう片方は腰に回してぐっと引き寄せた。
重なり合った肌を通して、トクントクンと鼓動が伝わってきた。
「もうほとんど忘れておったな」
そのつぶやきに小さく頷きながら、シチロージは自由になる方の手を動かして、ふたりの軍服の乱れを直した。
「故郷の村では、ガキどもは15になると肝試しに出されたものだった」
「肝試し?」
「かつては、一人前の大人として認めて貰うための重要な成人儀礼だったのだが、時代が下るにつれて形式的な物になってな。それで、肝試しというあだ名が付いたのだ」
「何をするのですか?」
「当座の食料と水と道具を少しばかり持って村の北にある山に入り、そこでひと月ほど過ごすのだ。携行したのは…確か、サムライ麦と言ったな」
「サムライ麦とは初めて聞きました」
「ガキどもはそう呼んでいた。麦とは言うが、実際は似ても似つかぬ雑穀の一種だ。カリカリに炒って干した物を粥に戻して食うのだが、肝試しに行く自分たちを、まるでサムライか何かのように誇らしく思っていたのだろうな」
闇の中でくすりとシチロージが笑いを漏らした。
「可笑しいか?」
「サムライ麦の袋を背負った少年のカンベエ様を想像したのです。さぞかし顎をキッと上げて、意気揚々と出発したのでしょうね」
「そう思うか?」
「はい」
それに対しては、カンベエは肯定も否定もしなかった。
自分にとっての肝試しは、シチロージの推測通りでもあり、と同時に全く違ってもいたのだった。
【1】
(ひと月経ったら戻ってくる?カンベエちゃん)
作業小屋の入り口で突然囁き声が聞こえ、ドキッとして少年カンベエは振り返る。
声の主は幼馴染みの少女だった。
朝陽を背に受けたその姿はシルエットとなり、表情はよく見えなかった。
「…アサギか。俺はもうすぐ肝試しに行くんだ。ちゃん付けはいい加減に止めろって言ってるだろう」
不意を突かれた焦りを隠そうとして、カンベエは答えをはぐらかした。
それに対しては何も反応が無く一瞬の沈黙が小屋を包む。それから普段の調子の声が聞こえた。
「今日はいつもより沢山掘るから、袋を余計に持って来いってばば様が言ってた」
それだけ言い残すと、少女はふいっと背を向けて駆けて行った。
「何だよ、あいつ」
人の心をかき乱しただけの行為にむすっとしながら、カンベエは言いつけ通りに麻の袋をもうひと束担ぎ上げた。
カンベエの故郷は、東方(ひがしがた)陣営の西方の楯となっている大山脈の南端にあった。
緑豊かな山脈の中で、村が点在する辺りは岩が剥き出しの痩せた土地ばかりだった。
本来は更に南の沿岸部に住んでいた彼の民族影面(カゲトモ)がこの地に移住させられたのは戦略的な理由からだったが、日々の糧を得るのに精一杯の現在の暮らしには、その大戦そのものが直接の影を落とすことは少なくなっていた。
戦さの話題には敢えて触れないという不文律めいた空気が日常を支配しているという状況もあった。
村人が世界に触れる数少ない機会は、大都市から商人(あきんど)と共にやって来る。
季節毎に村々を訪れる彼らは、簡易舗装の険しい山道を嫌って、商いの品物ごと空を飛んで来た。
その輸送艇は、大人とは違った意味で子供達にとって憧れの的だった。
それに乗ることは、外の世界へ夢の橋を架ける事だったのだ。
商人が村から都会へ持ち帰る物の項目は、近くで採れる石の加工品や村人の織る麻布などわずかだが、その中にごくまれに「優秀な人材」というのがあり、輸送艇に乗るという事はすなわち彼らに見出され出世の機会を掴む事を意味した。
しかし、所詮それは夢の架け橋でしかない。
辺境の山村で育った者が教育も競争力もある都会の人々に互していくのは至難の業だ。
その事は、少年達ですら理解していた。憧れは、文字通りの憧れだったのだ。
カンベエもまた、そういう少年のひとりだった。
憧れは憧れとして、自分の将来は現在の暮らしの延長線上にあった。それ故、しばらく前から商人に声をかけられてはいたが、その話に熱意を持って耳を傾けようとは思わなかった。
乾いた砂地に小さな礫(れき)が混じる農地が村の周囲に広がっている。
カンベエの家の畑はその端の方にあった。
村で春芋と呼ばれる主食の根菜は、そろそろ収穫の季節が終わろうとしていた。
「今日はいつもより沢山掘る」と言うことは、既に掘り起こした所からも取りこぼしを拾い集める余分な作業が待っているという事だ。
村総出で、陽が落ちるギリギリまで休む間もない一日となるのだ。
鍬を入れると髪の色と大差ない埃が舞い上がる畑で、カンベエも大人に混じって土起こしに精を出した。
礫と一緒にコロコロと転がり出る小粒の芋を、籠を手にした年少の子供達が拾い集めて回る。
肝試しに出る年頃になったカンベエは、そのような暮らしに特に疑問も不満も感じていなかった。
じじばばの世代も親の世代もやってきたことであり、周りを見ればおじやおば、いとこ達だってやっている。
アサギの家族も、ガキ仲間のあいつらの家だって…。
カゲトモは浅黒い肌をさらに陽に焼いて、毎日芋を掘り、時々岩ネズミを追うのだ。
えいやっ!と気合いを込めて、カンベエは鍬を振るった。
くだんの商人は、いずれ名のある御家中に推薦してやると言った。
そこの殿様は、家柄に関係なく「優秀な人材」を集めて学問や武芸を学ばせてくれるという。
つまり、優れたサムライを育てて戦さで手柄を立てさせてくれるのだ。
ついこの間もやって来た彼は、春芋の袋を担いだカンベエとすれ違う度に、身にまとった宝飾品をシャラシャラ鳴らして囁きかけてきた。
「手柄を立てれば出世ができる。出世とは何だ?そんな石ころと変わらないちびた芋を後生大事に掻き集めなくてもすむということだ。私の言う意味が分かるだろう、少年。大丈夫、君なら十分にやっていけるよ」
そうか。サムライとは、芋を掘らない人間のことか。芋を掘らずに人を斬る、らしい。
どちらにしようかな、と俺は選ぶのか?芋掘りか人斬りか、と。
手の甲で額の汗を拭って柄を握り直すと、えいっと気合いを込めて再び鍬を振り下ろす。
ガツンと地面を打つ手応えが腕から肩へ全身へと反響し、飛び立つ寸前の飛行艇のようにカンベエの体を揺さぶった。別れ際の商人との会話がよみがえる。
「あんたらも知ってるだろう。こんなカラカラに乾いた土地でも、時には鉄砲水に襲われて芋が流される。それにほら、あの山の頂き、あんなに遠くて霞んでるのに、あそこの崖崩れの流れがここまでやって来て、芋を掘る俺たちを押し潰すんだ」
「それで?君が言わんとする事は何かな、少年」
「そんな目に遭わないで済む連中が、どうして戦さでわざわざ殺し合うんだ?人が死んだり傷ついたりを、俺はもう十分見てきたよ」
「ほうほう、そこだよ、少年」
これ以上付きまとって欲しくないというカンベエの思惑とは裏腹に、商人の口調はにわかに熱を帯びた。
「そこだよ。せっせと手柄を立てる連中とは別に、そういうことを考えられる人物もまた必要とされるのだよ。それが戦さだ。ところで、今年は君も肝試しに行くんだろう?その間、私の話をじっくり考えてみたまえ。夏の終わりにまた来るから、続きはその時に話そうじゃないか。楽しみにしているよ」
日が過ぎて、いよいよ肝試しに出発する時がやってきた。
春の収穫期の後、名ばかりの雨期が来るまでの穏やかな季節の満月の頃、陽が落ちると同時に少年達は山を目指す。
成人儀礼を肝試しと自嘲気味に呼ぶのは、昔とは異なり子供達になるべく危険や負担がないように配慮されているからだ。
同じ年に生まれた者達が穏やかな時期を選んで一斉に旅に出る。集団でも単独でも構わない。
原則は満月から次の満月までのおよそひと月だが、その間のいつ戻って来ても良い。各自の能力の範囲で自立自活の時間を経験してくれば良いのだ。
厳しい岩山の中で生き延びる少数の逞しい成人を求めるのではなく、若い世代を大切に保護しようという方向に変わってきていた。
これは、現在のような境遇へと追い込まれた民族の歴史を刻み続けるための方便として維持されているも同然だったのだ。
その日の夕方、カンベエも集合場所である村はずれの祭祀小屋へと向かっていた。
そこで村長の訓辞と祭祀長の安全祈願のお祓いや祝福を受けるのだ。
背負った袋にはサムライ麦と水筒、寝袋、狩猟や工作のための小型の道具が収まっている。
しっかりした足取りで歩む度に、旅道具一式が背中で揺れた。
「いよいよだな、カンベエ」
途中で出会った青年のひとりが声をかけてきた。
「頭(かしら)!」
それは、肝試しから戻った少年達が入ることになっている若衆組の組頭だった。
彼は少年達皆の憧れの的で、ゆくゆくは村の指導層のひとりになると目されていた。
カンベエも一目置き、手本とすることが多かった。その組頭が難しい顔で立っていたのだ。
「お前のことだから良く分かっていると思うが、山でもし南方(みなみがた)の連中なんかと出くわしても大人しくしているんだぞ。お前の正義感とかはこの際問題外だ。もめ事は村の損になるからな」
「それくらい、ちゃんと分かってます」
「…なあ、カンベエ」
組頭は数歩近付くと、声を落として続けた。
「良い機会だから言っておくが、俺はな、お前もいつかは村を引っ張っていく人間になれると期待しているんだ」
「頭……」
「それじゃあ行ってこい!」
「はいっ」
カンベエは、肝試しの間に考えることが出来たと内心喜んだ。組頭の話は、商人の誘いより余程魅力的だ。
サムライとしての人生とか出世とかという事について、自分が全く何も理解していない事に気付いていた。
そうなった姿を具体的に何一つ描けないのだ。
それに引き替え、村の指導者になることがどういう事かは良く分かるつもりだ。
皆で耕作し皆で収穫する程度のかつかつの経済状況においてすら、しきたりという名の配分の不平等が存在する。自分が指導者のひとりになれたらそれが改められるかもしれない。
あるいは、ほんの気休め程度のお湿りしかない雨をもっと効率よく溜める方法を考えるとか。
それから、こんな形だけの肝試しは廃止して、代わりに、雨期直前のこの時期に少年達を総動員して「村の水瓶」を補強するとか…。
出発の儀式の後、岩山を縫って北へと続く山道を辿る間、カンベエはあれやこれやに思いを巡らせていた。
考えに夢中で、いつの間にか皆を置いてきぼりにして遥か先頭を歩いていることにも気が付かなかった。
ふと見回すと、月明かりの中に自分ただひとりだった。
闇に沈む足下を見つめ、カンベエはしばらくの間耳を澄ませた。他の連中は近いだろうか?
誰かが追いつくのを待っていようか。しかし、それはいつになるのか。果たしてこの道筋を来る者がいるのか。
そもそもカンベエと行動を共にしたい者がいるのだろうか。
仲間同士で行く集団は、出発までにそれぞれ顔ぶれが決まっていた。
カンベエは誰にも声を掛けなかったが、自身も誰からも誘われなかったことを思い出した。
いつもの遊び仲間とそれらしい話題が出たことはあったが、結局、お前にはついて行けないからと向こうから断りが入ったのだった。
それは少々残念ではあったが、肝試しは遊びではないのだと思い直し、それならば、目一杯自分の力を試してみることにしよう、そう思っただけだった。
このことが何を意味するのか、村とその周辺しか知らない少年のカンベエにはまだ理解できないことだった。
【2】
頭上の月明かりを頼りに、村人の生活に利用されている近隣の林を抜けて、カンベエは更に北の尾根を目指した。
北といってもそこはまだ大山脈のほんの南の端なのだが、それでも、深い森の濃い緑と生命溢れる豊かさは、荒れ地育ちのカンベエの想像を超えていた。
満ちた月の青白い光が鬱蒼と茂る樹木に遮られるほどに奥深く進んだ頃、細いながらも小川が流れている所に行き当たった。
「うわっ、水がこんなに沢山…」
少年は目を丸くした。
二、三度跳躍すれば向こう岸というほどの幅だが水量は豊かで、どうどうと水音を響かせて流れ去っていく。
樹幹の隙間から射し込む月の光が水面を煌めかせて、流れの行方を浮かび上がらせていた。
「何故この水が、このまま村まで流れて行かないのだろう」
途中で誰かに横取りされているような気がした。誰かが流れの道筋をねじ曲げているのだ。
あるいは、こっちの方がありそうな理由だが、岩山が太陽に剥き出しだから、その暑さでこれほどの水量も村に着く前に干上がってしまうのか?
いずれにしてもあまりの理不尽さに、カンベエは無性に腹が立った。
だが、その怒りと目の前の小川の魅力とは別物だった。
足の裏に響くほどの音を立てて流れる水の側を離れがたく、肝試しの最初の野営地はここと決まった。
流れにそっと手を浸し、その冷たさに驚く。顔を洗い口をゆすぎ、おもむろに水の甘みを舌と喉とでゆっくりと味わった。もうひと口。さらにもうひと口…
水辺の大岩に寄りかかり薄い寝袋で丸くなっても、カンベエはなかなか寝付けなかった。
まだこの小川に出会っただけなのに、それが全てを語っているような気がしていた。子供の自分には窺い知ることの出来ない事物が、外界にはそれこそ山の様に存在するのだと。
瞼を開けても閉じても、辺りは漆黒の闇の中だった。鳶色の瞳をその闇に向かってじっと凝らす。
横になった体を包み込む川の響きはあるいは子守歌のようでもあり、あるいは目覚めを促す板木(ばんぎ)の響きの様でもあった。
木洩れ日の眩しさと鳥のさえずりがカンベエを現実に呼び戻した。
たゆたう朝霧の中でうーんと背伸びをして、これからどうしようかと思いを巡らす。
このままずんずんと森を進んでさらに北部を目指そうか。それなら月が欠けるまで進み、再び満ちる間に戻って来ればちょうどひと月。
(安全を脅かすような猛獣はこの辺りにはいないから、と村長は言ってた。そんなのんびりした所で食料を調達しながら過ごすのか。まあ、全く無駄ではないだろうが、まったく、名前ばかりの肝試しめ)
しかしそののんびりにも、懸念が無くはなかった。
(但し、南の連中に出くわさなければの話だ)
カンベエの村をその裾に抱く大山脈は東方(ひがしがた)の領内に位置してはいるが、北部では北方(きたがた)の同盟に、南部では南方(みなみがた)連合にそれぞれ与する諸国との国境でもあった。
それら敵対する勢力の警備隊の一部が、東方の目を盗んで時折山中に姿を現すのだ。子供がひとりであるいは少人数でいる所を見つかったら、どんな目に遭わされるか分からない。
村長の訓辞で注意すべき点の第一はそれであった。
もっともカンベエの場合、若衆頭の心配は全く別の視点からのものだったが。
「張り合おうたって出来るものじゃない。まさか、俺だってバカじゃないさ」
小型の弓や山刀の扱いは日頃から練習していて少しばかり自信がありはしたが、それは日常必要な程度であって、武装した兵隊に立ち向かうほど向こう見ずではなかった。
「さて、取り敢えず出発するか」
野営の道具を片付けて背負うと、川に沿って歩き始める。そこでふと、アサギの言葉が浮かんだ。
(ひと月経ったら戻ってくる?)
「何だよ、あいつ。まるで、戻って来るなと言ってるみたいじゃないか」
思わず立ち止まって反論する。まだ子供の俺が、今のままで一体どこへ行けると言うんだ。
少女達は肝試しに行かない。代わりに、母親について麻布の織り方を習う。あるいは春芋の料理の仕方やいろんな保存食の作り方を。
あいつは今はまだ、名前の元になったアサガラみたいに華奢で頼りないが、その内逞しい大人の女になるのだろう。他のおなご達のように。
俺も大人になるんだ、自分が育った村で。俺のやりたいことは村にある。
時折野鳥や小動物相手に狩りの練習をしながら、カンベエはのんびりと探険行を続けた。その間、将来自分が村に貢献できることについて様々に思いを巡らしていた。
幾日もが平穏に過ぎていったある日、満開の白い花を付けた高木が群生する空き地に出た。
初めて見る花だった。
そもそも森に存在するもののほとんどが初めて見るものばかりだったのだが。
その花びらはまるで山羊の乳のように真っ白で、カンベエの両手を並べて広げたほどの大きなものだった。
ほとんどが高い梢の先にあったが、中で一輪だけ、跳び上がれば届きそうな所に咲いていた。
手を伸ばしながら何度か跳躍し、ようやく掴んだ枝先を引き寄せて、そっと鼻を近づける。
肉厚の花びらを重ねたその花は、何とも言えない濃厚な甘い香りを放っていた。
鼻にツンとくるほどの甘さだった。乾燥した村やその周辺では、これほどに甘い香りの花は見たことがない。
まるで、よく熟れた高価な夏の果物のようだった。その果物とて村にはなく、麓の町からやって来るのだが。
カンベエは顔を上げてぐるりと見回した。頭上を埋め尽くす白い花々から重ったるいほどに甘い香りが
降り注いでくる。一足早い夏に襲われたようで、軽い目眩を覚えて目をすがめた。
森のあちらこちらにある水の流れ同様、この香りは村には縁がないあらゆる豊かさを象徴しているようだった。
「ほんの少しでも良いから、村へ持って帰れたら…」
そうだ、帰り道にまだ花が咲いていたら、アサギに持って行ってやろう。あいつも見たことがないはずだ。どんな顔をするだろう。
15歳のカンベエにとってその行為は、森の豊かさを村へもたらすささやかな呪(まじな)いだったのだ。