蛍火 (五)



ユキノは三人に少し遅れて階段を下り、店を出て行くその背中を無言で見送った。


いつぞやは、橋の向こうで歩き出したあの人がそのまま行ってしまうように見えて、慌てて追いかけたんだったわ。あれこそ正夢。きっとこんな日が遠からずやって来るというお告げだったのね。
ここにいた五年の間、荒事らしい荒事もやっていないはずなのに、まるであのふたりとずっと一緒だったみたいに、ごく当たり前の顔をして出かけていってしまった。

五年では変えるに短かすぎた。
可笑しいわね。変えてしまうことが申し訳ないと後ろめたかったはずなのに・・・


蛍屋専用の船着き場は板場から店の裏手に出たところにある。勝手口で下駄を履こうとして、ユキノは動きを止めた。
あの人に変わって欲しいのか、それとも目覚めた時のあの瞳のままでいて欲しいのか。ほんとうのところは自分でもよく分からない。
でも・・・変わるって何が?

―――あれを取ってこなくては。


履きかけた下駄を脱いで急いで奥へ戻り、シチロウジの部屋に入った。「ちょいとご免なさい」と誰にともなく呟く。
「あれ」がどこに入れてあるかは知っていた。部屋にひと棹だけある小型の箪笥の抽斗を開ける。
この箪笥、あたしがあの人にあげられた数少ない物のひとつ。やっぱりお下がりなんだけど・・・

そのひとことがきっかけとなって、突然ユキノの目の前に、シチロウジが蛍屋へ移ってきた当時の情景が甦った。板前や下働きの男衆に加えて仲居達までが入れ替わり立ち替わり、何かしら手に提げては他に要る物はないかと声をかけたものだ
あれもこれも全部、店のみんなからのお下がり、と思わず部屋を見渡す。あたしからのは、箪笥の他にはあの文机とその上の小さい鏡台と・・・

「新品なのは、この朱い棒っ切れ」と呟きながら、抽斗から取り出した四尺ほどの朱色の棒に視線を落とす。その華やかな色合いに不釣り合いのずっしりとした重みが、もう一つの鋼の存在を呼び起こした。
「それから、左腕・・・」
唐突に強い喪失感に襲われて、ユキノはその場に座り込んだ。
あの人が自分のために誂えたのは、たったそれだけ。どっちも戦さの道具。ここに繋ぎ止めるものは何もない・・・・・・


常ならば今時分は座敷が引けて、あの人とあたしとふたりして夜風にでも当たりながら杯を傾け、のんびり言葉を交わすこともあった。それが今夜は・・・・・・
十年振りの再会に、話は弾んだのだろうか。お連れのいないところでゆっくりと思い出話に花を咲かせれば良いものを、敢えてそうしないことが、かえってふたりが深いところで繋がっていることの証しのような気がする。

ユキノは手にした棒を胸に押し当てた。
シチロウジが杖(じょう)と呼ぶこの鋼の棒に触れるのは初めてではない。しかし今、衣越しに伝わるひんやりとして滑らかな感触は、その内なる仕掛け同様にシチロウジの内面を隠して、まるで他人の手が触れることを拒んでいるかのようだった。
変わるって、一体何が?

想いを振り払うかのように二、三度かぶりを振って、ユキノは立ち上がった。



裏へ戻ってほの暗い船着き場に降りると適当な大きさの平船を一艘選び、異常がないかざっと目で確認してからその船縁の返し部分に朱杖を忍ばせた。

五年前のあの夜もこの船着き場で、お客に内緒の大騒動が起こったんだったわ。興奮で上気した仲居達に引っ張られて来てみれば、緑の明かりの灯った棺桶が。いえ、冬眠箱、だったわね。
救命装置の小窓越しにシチロウジの蒼白な顔を見たときの衝撃が甦ったが、ユキノはそれをすぐに胸の奥に押し込んだ。

顔を上げて見れば、水路は地底に穿たれた隧道の奥まで延びて闇の中に消えていた。
さっき蛍の間で、あの人のことを桃太郎と言ったのは誰だったかしら――――――桃太郎が流れてきた川を戻って行ったなんて話、聞いたことがないわ。



今度は自分を励ますかのようにかぶりを振って勝手口に戻った。
無言で板場を通るユキノを、翌日の仕込みを終えたらしい板長がこれも無言で見ている。きっと自分は女将らしからぬ顔をしているのだろうとは思ったが、言葉を交わす気になれずそのまま通り過ぎた。

蛍の間へ戻ろうと階段を上がりかけたところで次に仲居頭と行き会い、ああ、と安堵の声で呼び止められた。
「女将さん、こちらでしたか。番屋のご主人から連絡板が届いてるんですよ」
「こんな夜更けに?」
「なんでも、差配様からの急なご命令だそうで」と二つ折りの薄板に挟まれた書き付けを差し出した。

開いてみると、癒しの里の自警団番屋主人名義の依頼状であった。

『何人(なんぴと)も特命警ら隊のお調べが終わるまで癒しの里の外に出てはならぬという緊急のお達しがあった故、番屋所属の各お店(たな)ではお客を引き留める手配等をされたく 云々』

「さっきからまた、表が騒がしいようですよ。離れてますけど呼子も聞こえるし」
「その様ね。今夜は大変なことになりそうだわ。タエさんは仲居のみんなに指図してちょうだい。あたしは、まだ残ってらっしゃるお客様にご説明に伺うから」
「分かりました」

ユキノは一段一段踏みしめながら階段を上っていった。いよいよ今夜、答えが出るのかも知れない。





船着き場で待つ六人とユキノの元へゴロベエとカンベエが戻ってきた。
コマチがキクチヨの腕にしがみついていかにも嬉しそうなのを見ると、カンベエは良かったなと頭を撫でてやる。コマチが神妙な顔でこくんとうなずくその姿がユキノの心に響いた。

「シチロウジなら心配ない」
カンベエの声に、視線をコマチから声の主に向ける。
「撹乱されたあと連中がどう出るか、少々様子を窺ってから戻るゆえ」
ユキノの無言の問いに答えてから、カンベエは一同を見回して言葉を続けた。

「女将のご厚意には再び礼を申さねばなるまい」
「いいえ、このくらいのこと・・・お役に立てて良うございました。店はいくらか混乱してますが、皆様のお姿は誰にも見られてないと思います」
「重ね重ね、かたじけない」
カンベエが頭を垂れたところへシチロウジが姿を現した。

「再び取り逃がしたことで、警ら隊の士気がいやがうえにも上がったようです」
シチロウジの一見状況を面白がっているような表情や声音の下に、ユキノは隠された別の感情を感じ取った。
「捜索の手を水路に伸ばすのは時間の問題でしょう」
船着き場に繋がれた大型の手漕ぎ船に目をやってから、シチロウジはユキノに視線を向けた。
「音を聞かれてはいけないと思って手漕ぎの船にしときましたよ」と言うユキノの言葉にうなずく。

「このまま水路を辿っていけば良いのかな」
闇に閉ざされた水路の奥に目をこらしながらゴロベエが尋ねた。
「いいえ。案内が必要です。この奥には行き止まりが多く、通れてもうっかり式守人の支配区域に入っては安全は保証できません」
「通りで芸を売っておると、少々耳に入ってくる名だが」
「会えば分かります」

「シチロウジさん!」
たまらずユキノは声を上げた。
「あなたがご案内を?」
「ええ。ちょっとそこまでお送りしてきます。さ、皆さん、お急ぎご乗船下さい」
ユキノを心配させまいとして、シチロウジは座敷での調子で答えた。本当にそのつもりだったのだ。

「櫓は私が操りますから、どなたかに櫂をお願いします」
言いながら乗り込もうとして、船縁の返しに見慣れない影を見つけた。手を差し入れて取り出してみると、自室に置いてきたはずの朱杖であった。
小さく息を呑み、顔を上げて船着き場に立つユキノの姿を見つめる。


(執筆継続中) 


(2007.07.14現在)

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