蛍火 (二)
女将に案内されて、カンベエは店の階段を上がった。
階段を上がりながら、その踏みしめる一段ごとに改めて喜びが膨れ上がっていくのを押さえられなかった。
生きていたのだ! かような奇跡が、そう度々起こるものだろうか。
「何としても生き延びよ」と冬眠箱にシチロウジの体を接続したあの時の、勝ち目の薄い戦さへ送り出すにも等しい祈るような心地。
そのシチロウジを載せた搬送船を押し潰していつまでもくすぶり続ける二の丸の側から離れられず、恐ろしいほどの喪失感にさいなまれていた十年前の己れの姿。それらが一度に甦ってきた。
生きて再び相まみえん――――――全く、何という奇跡!
上がりきったところで、カンベエはたまらず振り返る。もう一度その奇跡を確かめたかったのだ。
階下には、確かにその奇跡が佇んで、こちらを見上げていた。しかし、この喜びを丸ごと共有しているような気配は希薄だった。
顔には出さなかったがカンベエは少なからぬ衝撃を受け、それによって現実に引き戻された。
「後で参ります」と言うシチロウジに無言でうなずく。
廊下を進みながら、カンベエは先に立って案内するユキノを意識した。
この女性はシチロウジをお前さんと呼んだ。我らを迎え入れたときの様子から、二人は意を通じあっているのは明らか。それが男女であれば、そういう仲になっても何ら不思議はない。
いかなる経緯でここにいるにせよ、シチロウジには再会をもろ手を挙げて歓迎できぬ都合もあろう。
自分が冬眠箱に入れたことと、彼(あれ)がその後を生き延びてこれまで来たこととは全くの別物。
冬眠箱―――
シチロウジの、自分に差し出された右腕の陰になっていた左手が思い浮かんだ。
あれは鋼ではなかったか。やはりあの傷では助からなかったらしい。
しかし、何故あのような素材を選んだのであろうか。戦さの世も遠くなった今となっては、生身に近い方が見映えがするであろうに。
いずれにしても、日常の用には耐えるであろうが―――再会の喜びとほぼ同時に、自分がシチロウジを数に加えようとしていたことに気付き、カンベエは内心苦笑した。
そしてその思惑は、苦い想いと共に直ちに退けた。
これから赴く野伏せりとの戦さに、あの作り物の腕が生身のそれに匹敵する働きをするとは思い難い。
単に義手だからというのではない。往時のシチロウジの独特な、独創的ともいえる槍さばきをよく知ればこその判断だ。自分の知る限り、こと槍に関しては自軍にもまみえた敵にすら、あれに匹敵するものはなかった。
この様な遊興街にどれ程の間住んでいるのかは知らぬが、左腕(あれ)を試す機会があっただろうか・・・・・・
更に言えば、とカンベエは自嘲的に付け加えた―――己れが抱き続けてきたサムライとしての焔(ほむら)とも言うべき物が、シチロウジの内にもいまだ残っているであろうか。
まこと冷酷なものだが、これが現実というものだ、シマダカンベエ。
この十年という月日の我が胸の想いは、何ら主張する根拠とはなり得ない。生きていることが分かった、それだけで十分ではないか。
連れの待つ座敷の敷居をまたいだとき、全てのことを己れの胸ひとつに納めておこうとカンベエは心を決めていた。
「こちらです」
ユキノがカンベエを案内して蛍の間へ入っていくと、既に座布団と膳の一部が用意されていた。
「おお、やっと来られたか、カンベエ殿。店の中で迷われたのかと皆で心配しておりましたぞ」
大柄な男がおどけた声を出して、上座に設けられた席を勧める。
見回せば、上座に一席、両側に向かい合うように三人分ずつ。その六つの席のうち三つは埋まっており、農民とおぼしき男と姉妹は部屋の入り口で控えていた。
「いや、儂はここで構わん」
カンベエが手近なところへ落ち着こうとするので、ユキノは「こちらへ」と言いながら上席を片側へ移動させて上を揃え、大男の向かいに案内した。
「行き届きませずご無礼を致しました」
畳に手を着き柔らかい笑みと共に、女将は一同を見回した。
「連れだってお越しになるお客様は大抵どなたかが中心におられますので、仲居の判断でこの様に並べたのでしょう」
「いや。謝らねばならぬのは我らの方。ご厚意を受ける立場なれば、文句などあろう筈もない」
頭を下げるカンベエに、ユキノは微笑み返す。
「いずれにしても、なかなかの気配り」とくだんの大男が感心したような声を上げると、もうひとりの小柄な方も相槌を打つ。
「さすが、立派な構えのお店だけのことはありますね」
「恐れ入ります」
再び微笑んで、ユキノはまだ席に着かない三人にも声をかけた。
「さ、そちら様もどうぞお着き下さいな。じきお料理も参りますよ」
大人に混じって座っていた少年も声をかける。
「三人とも、先生が来られたのだから、もう遠慮することはない。こちらへ来たらどうだ」
農民達は明らかに場慣れしない様子で、おずおずと銘々の座布団ににじり寄った。ひどくしょげた様子の妹が痛々しく、それを姉が庇っている。
「先程の様子では、きっとお腹を満たす暇もなかったでしょうから、たくさん召し上がって下さいな」
励ますような女将の声が、かえって少女の悲しみを深めたようだった。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「実は・・・」と大男が小声で説明した。
「ここへ来る途中ちょっとありましてな。このコマチ坊には特にこたえておるのです」
「まあ、さようでしたか」
ユキノは続けてかける言葉もなく少女を見つめる。
つくづく奇妙な取り合わせの一行だと思った。どの様な絆で結ばれ、どこへ行こうとしているのか。
捕り方に追われているのであれば、町の法を犯した者達に違いない。蛍屋の女将としては、一時の情に流されてはいけないかも知れない。
けれど、とユキノは考える―――皆疲れているのが見て取れる。追われる理由は何にせよ、逃避行の心労は想像に余りある。とりわけこの様に幼い子供が、大人に交じってそれに耐えているとしたら。
ここは、その情とやらに流されて然るべき時ではないだろうか・・・
そこへ料理の一番手が運ばれてきた。
それを機に、ユキノは女将として客のもてなしに専念することにした。料理の材料を話題に座の雰囲気を変えようとしたのだ。
蛍の間に和やかなひとときが訪れた。
カンベエは皆の話に耳を傾けながら、女将の笑顔に視線を留めていた。
この微笑み方には見覚えがある。かつてのシチロウジも、この様に軽く首をかしげて柔らかい笑みを浮かべたものだ。
正直なところ、これはたまらん・・・カンベエは内心呟いた。外の包囲網がいくらかでも手薄になる気配があれば、早々にここを出ていくことにしよう。
しかし、と一同に目を向ける―――皆、程度の差はあれ疲れている。特に幼い者が・・・
カンベエとユキノを見送った後、シチロウジは自分の部屋に戻っていた。あのまま二人の後を付いていくことは出来ないと思ったのだ。
カンベエの顔からは、再会の喜び以上のものは読み取れなかった。カンベエにとって自分の存在が不都合ではないらしいということは分かったが、一体どういう顔をしてあそこへ行けば良いのか・・・
自室の、道具らしい道具もない狭い空間の中央にきちんと正座する。
緩んだ髷を結い直そうと思って解いた髪が肩にかかったままだった。拳は生身も鋼もどちらもしっかりと握られていた。胸中を様々な思いが駆けめぐる。
カンベエ様に率いられていると覚しきあの集団は、一体どの様な性質のものだろう。大人と子供、サムライと農民とがひとつに束ねられて。
カンベエ様からは、ひとつ所に留まる者には無い匂いがした。何より、刀を抜いた者だけが帯びる匂いがした。ほんの一瞬触れただけでもそれと分かる、なじみ深い匂い―――サムライの匂い。
大戦が終わった後も、カンベエ様はサムライであり続けたのだ。
その場に座して目をつぶったシチロウジの瞼の裏に、突如戦さ場が出現した。既に右手には、見えない槍を握っていた。
戦さ場を包み込む大音響に眼を射る閃光、煌めく刃、場に満ちる阿鼻叫喚、我が身に押し寄せる敵兵の殺気と叫び交わす味方の姿・・・・・・
それらがシチロウジの周りで渦を巻いた。肌が泡立ち髪が逆立つ。
左腕を得て四年。この腕を選んだのは、眠ることも解き放たれることも叶わぬ己れのサムライの部分を宥めるためだった。そして予想通り、戦さ場の情景が甦ってきた。体に染み込んだ感覚としての記憶に導かれて、思わず槍を繰り出すこともあった。足さばきをさらってみもした。
しかしそれらはただの郷愁。今夜は何かが違っている。
―――匂いだ!
サムライから立ちのぼる匂い。現に今起こっている戦さの匂い。その生々しい匂いが自分を揺さぶっているのだ。この五年の間呼びかけられるのを待っていたサムライの部分を引きずり出そうとしているのだ。
衝動を抑え込もうとして、シチロウジは拳をぐっと握り込む。右手が空で良かったと思った。
今にもさらっていきそうだった嵐がやがて治まると、細く長く息を吐いてようやく目を開けることが出来た。
ふと見ると、文机に載せた小さな鏡台に己れの顔が映っていた。部屋には廊下の照明が障子越しにうっすらと射し込んでいる。その明かりを頼りに覗けば、映る顔は暗く沈んでもの問いたげであった。
三本の髷は解かれたままだ。今一度結うことは意味をなすだろうか。それとも、自分の望みなど鏡に映った姿の如く儚いまぼろしで、昔の誓いはとうに消え失せているのだろうか。
この左腕は、求めるばかりでいっこうに動こうとしない自分に対する皮肉でもあった。
もしも・・・・・・もしもカンベエ様の消息を求めてここを出て・・・もしもどこかで出会うことが出来ていたとしたら・・・そうしたら自分もあの中にいただろうか。
そうはしなかった自分はここにいて、迎え入れ送り出すしかないのか。
―――ユキノのためにも。
誰のためだって? 随分偉くなったもんですな、シチさんよ・・・
思いがけない名前に自分で自分を揶揄する声が聞こえ、シチロウジは現実に引き戻された。
「あっ、蛍だ!」
開け放された障子の向こうへ目をやっていたコマチが、驚いたような声を上げた。
気乗りしないながらも、ポツリポツリとようやく料理に箸を付け始めたところだった。
コマチの声に皆が一斉に振り向く。縁側の真下に中庭があり、そこから飛び立った蛍が数匹、皆の注目に応えるようにこちらへ飛んで来ようとしていた。
座敷の入り口あたりでたゆたうように飛び交うその光に目をやっていたカンベエは、思わず息を呑んだ。あたかもその内の一匹が変身したかのように、唐突にシチロウジの姿が現れたのだ。向かいに座るゴロベエも小さく声を漏らしたのが耳に入った。
シチロウジが敷居の向こう側に両膝を着くと、蛍がその周りに集まってきた。
生身の右手を板張りに鋼の左手を膝に置いて、視線を下げたシチロウジが静かに口上を述べる。
「この度は偶然とはいえ・・・・・・カンベエ様始めご一同様にお目にかかることが出来、これ以上の喜びはございません」
言葉が吐き出されるのに合わせて僅かに上下する羽織の肩や髷の先で、とまった蛍の光がゆっくりと点滅していた。
(続く)
(2007.05.06)