風来(前)



道具部屋を引っかき回していたシチロウジの元へ、仲居頭がやってきた。

「シチさん、ちょっといいかい」
「おタエさん、どうしました。お店の方はいいんですか」
「一旦お帰りになったお客さんとお姐さん方が、シチさんに次のお座敷まで送って欲しいって戻って来られてるんだよ」
「それは構わないけど、何かあったんですか」
仲居頭と並んで蛍屋の廊下を歩くシチロウジの感覚に、表通りのいつにない様子が伝わってくる。

蛍屋は、表通りからは水路を挟んで幾らか引っ込んでいるので、そぞろ歩く人々の喧噪は、普通は店の中にまで伝わってこない。
その喧噪が、今は異質な騒ぎによってどこかへ押しやられているようだ。固唾を飲んでいる、という様に。それ故、かえって常ならぬ雰囲気が伝わってきたのだった。


表玄関に、客と芸妓衆が固まってシチロウジを待っていた。
芸妓を連れてこれから別の見世に繰り出そうという旦那衆は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの大店の店主とその陣笠連。
この町の建設者であり所有者でもある差配の覚えも目出度く、遊び方が半端ではないというもっぱらの評判だ。怖いものなど、何もないだろうに・・・

「これは、近江屋さん。何かご不快でもありましたか」
板張りに膝を着いて挨拶するシチロウジに、一人が鷹揚にうなずいた。
「ああ、シチロウジはん。悪いけどちょっと頼まれておくれ」
「お前さんが蛍屋の用心棒かい、お若いの」
陣笠の一人が尋ねた。
「そう言うわけではないんですが、この時分に手の空いてる男衆は私だけでしてね・・・外の様子が変ですね。行って、ちょいと見てきましょう」
シチロウジは三和土の端に用意してある女将用の下駄をつっかけると、カラカラと鳴らしながら店を出て行った。

それを見送った別の一人が、傍らの芸妓に耳打ちする。
「あれが、女将の何って奴かい。男前だと話には聞いてたが。何だい、あの頭」
「あら、いい仲だって噂もあるけど、どっちも別にいるって話も聞きますよ」
「ええっ、そうなの。女将さんじゃないんなら、あたし、シチさんに迫っちゃおうかしら」
「無理無理。前はおサムライさんだって言うし・・・あたしらにおサムライの相手なんか勤まるわけないでしょ」
「そうねえ。シチさんは別にして、お座敷に来るお客も町で会うお人も、サムライにろくなのいないしね」
「これこれ、あんた達。お客様の前ですよ。言葉を慎みなさい」
一同のまとめ役らしい年嵩の芸妓が、若い者をたしなめる。
「若い子達のお喋りはかまあしません。町のもんの本音が聞けますし」
近江屋の一声に、若い芸妓は恐縮して首をすくめる。それをまたたしなめられた。

きっかけを作ったまま無視されていた客が、漸く番が来たとばかりに口を開く。
「だから聞いてるんだよ。そのサムライが、何であんな格好してるのかってね」
芸妓達は一瞬顔を見合わせてから、一斉に吹き出した。
「それはですね、お客様・・・いつだったか・・・あははは・・・」
「だめ、もう可笑しくって・・・あははは・・・やだあ・・・」

玄関先が賑やかになったところへ、蛍屋の女将が姿を見せた。
「あらあら、賑やかですこと。表はどんなです」
「今、シチさんが見に行ってくれてます」
「女将さん、こちらのお客様が、例のシチさんの武勇伝をお聞きになりたいそうなんですけど、話しちゃっていいですか」
「・・・ああ、あれですか。人様にお聞かせするようなものじゃないと思いますよ。本人もそう言ってますからねえ」
といいながらも、表情は楽しそうに見える。芸妓は客に、後でお話ししますよと囁いた。

女達が笑いさざめいているところへ、やはり下駄を鳴らしながらシチロウジが戻ってきた。
「どうでした、表の様子は」
「おや、女将も来てましたか。噂だけで直接見聞きは出来なかったんですがね。上層階の警ら隊が逃亡犯の追跡でここまで下りてきてるらしいですよ」
シチロウジの報告に、芸妓達は眉をひそめた。
「まあ、癒しの里で捕り物なの」
「物騒なことになったわねえ、嫌ねえ」

「この頃は、差配の配下が直接手を出すことが増えましたね」
シチロウジの言葉にユキノが頷く。
「ええ。この前の寄り合いでも、自警団の立場がないって、お番屋のご主人がこぼしてたわ。あら、これはとんだ失礼を。近江屋さん、今のは聞かなかったことに」
微笑みかけるユキノに対して客は相好を崩し、
「女将の頼みとあってはなあ。また寄らしてもらいますし。そんときは宜しゅう頼みますし」
ふふふと声を漏らすと、陣笠連も調子を合わせた。

「今だったら、何も心配はなさそうですよ」
外を玄関の明かり越しに窺いながら、シチロウジが声をかけた。
「この辺りは、騒ぎから遠いようですから」
「やれやれ、肝を冷やしましたなあ。さて、それじゃあ、次、行くとしましよか」
「皆様、どうぞお気をつけていらして下さいまし」
「女将、世話になりましたな。シチロウジはんも、おおきに」
先刻この玄関で交わしたばかりの挨拶を互いに繰り返して、客と芸妓達は蛍屋を後にした。

「やっぱりシチさん、そこまで送って下さいな」
引き返してきた芸妓の一人がシチロウジの手を引いた。
「橋を渡るまでですよ」とシチロウジは苦笑して、そのまま手を引かれて行く。
「今日はあたしが左手よ」
「ずるい、この前もじゃなかったあ?」
「はい、順番、順番・・・」


客が店の前の水路に懸かる橋を渡りきるまで見送ることにしているユキノは、いつもの如く店先に立っていた。若い芸妓達に囲まれて何やら談笑しながら橋を渡っていくシチロウジの後ろ姿を、見るともなく見ている。

さっきはあの子、武勇伝だなんて言ってたっけ。酔って無理を言うお客相手に冗談を言って笑わせ、その場を治めただけなのに。芸妓の様な仕事をしている者達にはきっと、あんな風に受け流すのは辛抱のいることなのかも知れない。あたしにも、覚えがないわけでは・・・

その武勇伝で飛び出した冗談のまま、それ以来あの人ったら、髪をあんな風に結んで。自分でも気に入りました、なんて言って。
気が付いたら、すっかりこの世界に馴染んでいるように見える。あれからもう、何年になるのかしら。


そのシチロウジは、橋を渡りきったところで止まると、街灯の明かりを受けながら、立ち去る客達を見送っている。誰かが振り向いて手でも振ったのだろう、軽く右手を上げた。それから反対を向くと、おもむろに一歩を踏み出す。
それを見て、ユキノの心の臓がドクンとなった。思わず、シチロウジを追うように走り出す。
慌てて走り出した下駄の音が聞こえたのだろう、シチロウジが橋の向こうからこちらを見た。おや、と怪訝な顔をしている。

ほんの少しの距離なのに、渡り終えたユキノの息が上がった。
「どうしました、女将」
本当に二人きりにならないと、この人はあたしを名前で呼ばない。なんて律儀な・・・・・・いえ、そうじゃない、あたしの言いたいのは・・・
ほんの少しだけ相手の顔を見つめて「お迎えに来ました」―――よかった、軽い口調で冗談めかして言えた。

シチロウジはニッコリする。
「向こうに警ら隊と話したって人がいたんで、詳しいことが聞けるかと思ったんだけど、お迎えを受けてる間にどっかに行っちまいました」
「それは御免なさい」と言いながらユキノもそちらを見る。小路は建物の陰になっていて薄暗く、人の姿はなかった。
「さ、戻りましょうか。他のお客を放って置いちゃあ、蛍屋の女将の名が廃る」
シチロウジは先に立って橋を戻り始めた。

そうね、戻りましょう―――返したたったそれだけの言葉に、我知らずユキノの想いの全てがこもっていた。シチロウジが歩みを止めたので、つられて立ち止まる。
振り返って再び怪訝な顔をする男の眼差しに、何と答えようかと迷った。相変わらずね、声の調子を読まれてしまうわ。
「商売、商売。もうひと頑張りね」
先程のシチロウジの微笑みに負けないように、ニッコリしてみせる。

まさか、あのままどこかへ行ってしまいそうに見えたなんて、言えるわけないじゃない・・・・・・


ユキノは小走りになってシチロウジに追いつくと、並んで店の暖簾をくぐった

(続く)   


(2006.08.05)

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