衝 (五)
何度目かの砂漠訪問を終えて、カンベエは再び放浪の旅を始めていた。
いつになく考え事に入り込んでいたので知らない内にいつもの街道を外れ、気が付くと灌木が散在するだけの岩山は、大小の樹木が生い茂る緑豊かな山へと変化していた。
崖下に小川を見つけ、足場の良さそうな所を辿りながら水辺に下りていった。
水際に両膝をつくと、手で掬うのももどかしく、直接口を水の中に入れ、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み始めたが、幾らも飲まないうちにハッとして飲むのを中断する。一度二度と呼吸を整え、今度は水を手で掬って、改めてゆっくりと飲み始めた。
途中で軍服の上着を脱ぎ、顔を洗ったり頭に水をかけたりしながら、時間をかけてゆっくりと喉を潤す。
胃袋が水で苦しくなる前に飲むのを止め、最後にもう一度顔を洗うと、漸く一つため息が出た。
狭い河原で手近な石に腰を下ろし、改めて周囲を見回してみる。
上の道を歩いていたときの印象よりも緑が濃く、森が深い印象を受ける。山奥へ踏み入っているのか人里へ近づいているのかは皆目見当が付かない。
今居るところは小さい谷になっていて、谷底は細い水の流れが有るだけだ。耳を澄ますと、時折葉擦れの音と鳥の鳴き声がする。
田舎の村に居を構えてはいたが、カンベエは樹木や鳥の見分け方なぞは、士官学校や実戦で戦略上必要なことを学んだに過ぎない。子供時代を過ごした所は内陸の山岳地帯で、荒涼としていて豊かな緑とは縁遠い地域だった・・・・・・
生気溢れる山の空気を吸い込みながら、カンベエの思いはいつの間にか、村での生活へと帰って行った―――
自然と交わるという点に関しては、子供達の方が遙かに経験豊かだった。近隣の出のヒラザがゴロウタにあれこれ教えていたな。子供二人で留守番をしている間にどこかへ出かけもしたろう。
シチロウジは、自分が仕入れてきた知識のあれやこれやについて、俺を捕まえては一つ一つ説明したがっていた・・・
―――そうだ。話すことしか存在しなかったのだ、我々の間には。
俺は、あいつの話に耳を傾けてやっただろうか。あいつに話しかけてやっただろうか。
あいつには、話すことしか出来なかったのに・・・・・・
それ以上のことを許さなかったのは・・・・・・俺か。
最後の近親者の叔母が亡くなって、九つ位の頃ヒラザの元に来たゴロウタは、大層な甘えん坊だった―――並んで話をしていても、いつの間にかヒラザの膝によじ登っていたり、叱られれば俺の背に寄りかかってめそめそしたり・・・気が利いてませてもいたが、年相応のあどけなさも振りまいていた。
それに引き比べ、シチロウジはどうだったろう?
崖の上が俄に騒がしくなり、複数の人の声が聞こえてきた。
カンベエは、羽織った上着を留めながら立ち上がる。
(ゴロウタより年嵩に見えたが・・・物心ついたときには既に難民となっていたというなら・・・)
誰かが崖を滑り降りてくる。カンベエは身構えた、丸腰ではあったが。
(穏やかで親密なふれあいを求める心は、ゴロウタ以上ではなかったか・・・・・・)
カンベエの目の前に、着地し損なって転がり落ちてきたのは、髪の色こそ焦げ茶だったが、村を出て士官学校に入った頃のシチロウジ程の年頃の少年だった。
(年齢も、見かけより下だったかも知れぬ・・・)
起きあがって逃げ道を探すように辺りを見回した少年は、カンベエに気付くとギョッとしてその場にへたり込んだ。そこへ上方から、男達の声と崖を下りてくる足音が聞こえてきた。
慌てて立ち上がった少年に、カンベエは顎を上げて傍らの大木を示し、自分も崖の陰になる場所に移動すると、小石を飛ばしながら次第に低くなる足音と少年の間に位置するように立ち、気を集中していった。
下りてきたのは、男が一人だった。
大柄な上に手には刀を持ち、獲物を仕留めたときの喜びを先取りしたような残忍な笑みを浮かべていた。
目の前に思いがけない存在を認めると、男はうなり声を上げた。
「おい、貴様。いまガキが下りて来たろう」
カンベエは無言のまま相手を見据えた。見かけのあさはかさとは違い、この男、かなりの腕前のようだ。
男は刀の切っ先を低くしてはいたが、丸腰のカンベエを油断なく見返してきた。
暫く見合っていたが、やがて男は殺気を解くと口を開いた。出会い頭の凄味のある声音とは打って変わって穏やかな口調になっていた。
「お主が知らぬと言うなら、ここへは来なかったのだろう・・・」
「無益な立ち会いを避けるのは賢明な判断だ」とカンベエも応じた。
「お主、かなりの手練れと見た。どうだ、我らの仲間に加わらぬか」
「先程のお主のような笑みを浮かべて子供を狩るような生業ならば、願い下げだ」
そこへ、崖の上から声がかかった。
「おおい、どうだ、ガキは見つかったか」
男はそれには「森に紛れてしまったらしい。辺りにはおらんぞ」と応えた後、カンベエに向き直った。
「あれは・・・あの顔を見れば、誰でも足がすくんで、その後の仕事がし易いのでな。断るならしようがない」
刀を鞘に収めると「上がるぞ」と上方に声をかけて、崖を登り始めた。
途中振り返り、カンベエがまだ自分を見ているのを認めると、ちょっと躊躇った後「戦さがな・・・・・・」と呟いた。
カンベエもその顔をしばし見つめてから、同意を込めて僅かに頷いた。
そのまま振り返ることなく、男は崖を登っていった。
カンベエは崖を向いたまま、木の陰で躊躇う気配を背中で聞いていた。
やがて少年が姿を見せ、おずおずと話しかけてきた。
「・・・あの・・・・・・ありがと」
「お前は、この崖を登れるか」
思いがけないカンベエの言葉に、少年は言われた意味が分からず、暫くぽかんとしていた。
「まあ、どうせ、もうしばらくはここで時間稼ぎをせねばなるまい」
カンベエが元の石に腰を下ろすと、少年は少し離れたところで小川の水を飲み、背負った布袋から竹筒を出して水を汲んだ。ハッキリとこちらを見るわけではないが、カンベエの動きを気にしているのが端々に見て取れる。
何年も前の出会いを思い起こしているときにこの少年が降ってきたのが、カンベエには興味深いことに思えた。
この子も一人で生きてきたのだろうか。戦さが有った頃はまだまだ幼かったろう・・・・・・
少年はカンベエが自分を見ているのに気付くと、「なにを笑ってるんだよ」と幾分緊張を解いた表情で話しかけてきた。
「笑ってなどおらぬが」
「・・・・・・あんた、見たところ何にも持ってねえが」
「ああ。暫く前に出会った親子連れが困っていたようだったのでな」
「一式くれてやったってわけかい・・・信じられねえな」
そういうと自分の布袋を引っかき回して、竹筒を一本、カンベエに投げて寄越した。
「小さいが、ないよりましだろう。あんた、水だけはちゃんと持っとかなくっちゃ」
「これは助かる。かたじけない」
また少年はぽかんとしたが、大人扱いをされて悪い気はしないと言って、屈託なく笑った。それから慌てて声をひそめた。
「俺、コスケ。本当はコタロウってんだが、道中はコスケで通してる。他の奴らには内緒だぜ」
「カンベエだ。名前の件、承知した」
二人は顔を見合わせてニヤリとした。
そのあと暫くは、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら時が過ぎていった。
少年には思いを巡らすことが有るようで、それはカンベエも同じだった。
「俺は行くぜ。あんたはどうする」
そろそろ頃合いだなと言って、少年は立ち上がった。おどおどしたところがなくなると、キビキビして大人びて見える。
カンベエは、その、焦げ茶の目元にまだ幼さの残る顔を見上げた。
「俺も行くとするか。暗くなる前に適当な場所を探さねばなるまいな」
「適当なって、野宿かい」
「そうだ」
「俺とおんなじだな。だけど、俺が場所見つけても分けてやんねえからな」
少年は口走ってからハッとした表情になったが、カンベエは素知らぬ顔で、「子供から奪っては、先程の連中と変わらぬ」と、さっさと崖を登り始めた。
「変なこと言って悪かった。つい、いつもの癖で―――謝るよ。助けて貰ったのに・・・・・・」
追いすがるように謝る少年にカンベエは振り向いて、
「気にするな。そうやって自分を守ってきたのだろう」と優しく答えた。
少年の口元が歪むと、見る間に目に涙が溢れた。
カンベエの胸が、ギリギリと痛み始める。
「・・・早く来い。日が暮れるぞ」
少年は頷くと袖でごしごしと顔を拭いて、カンベエの後について崖を登り始めた。
崖を登る間、足許に向けられたカンベエの目に映っていたのは、礫(れき)混じりの地面ではなく、潤んだ空色の瞳でじっとこちらを見る、懐かしい顔だった。
大きく見開かれてはいるが、自分のことでは決して涙の零れることのない瞳。
キッと引き結ばれた、決して嗚咽を漏らさぬ口元。
それは、例え難民生活で身に付いたものだったとしても、村での穏やかな日々には不似合いなもの。
共に暮らすようになってからも変わらず続いたのは、おそらく、どこかの馬鹿者のせいだ。
もしも・・・もしも、もう一度・・・・・・・・・
そうしたら今度は何としても、この少年のようにぽろぽろと涙をこぼして声を上げて泣けるようにしてやろう・・・・・・
もしも、もう一度・・・・・・・・・
少年は、黙り込んで数歩先を行くカンベエに遅れまいとして急ぎながら、このままついて行ったものかどうか迷っていた。しかし、先程の男とのやり取りから相当の腕前だと判っていたので、自分の安全のためにも暫くはくっ付いていることに決めた。
夜露をしのぐ場所を教えるのは、安全を確かめてからでも遅くはないだろう・・・・・・
相変わらず言葉を交わすでもなく、それでも二人は共に、山道を辿っていった。
(終)
(2006.07.14)