衝 (四)
砂漠に開いた大穴をそのまま利用して建設された町は、空へではなく地下へ拡がった。
住居や店舗などが建設されている岩棚が穴の壁沿いにぐるりと何段にも層を成してめぐらされ、同じ階層の間に橋が架けられて行き来するようになっている。
階層間を上下する方法は幾通りか有るが、建築物の背後の岩肌に直接刻まれている階段は建設工事初期からの最も古いものである。今では岩肌の凹凸に紛れてしまっているその階段の存在を知るものは多くはない。
医者のトウゲンアンに教わったその「裏道」を通って町の地平部から最下層へと一気に下りてきたシチロウジは、途中誰とも顔を合わせることなく蛍屋の裏口に戻ってきた。もっとも、夜が明けたばかりのこの時間帯に屋外に出るような生活をする者は、この町には殆ど住んでいないのだが。
シモツキ村でこの時分に出歩こうものなら、野良仕事に向かうおとうやおっかあ達に次々見咎められて、あれこれ声をかけられたものだ。
村の生活と町のそれとがこれ程違うものだとは。
自分から見れば相当ませていた筈のゴロウタの知識と想像力も現実には及ばなかっただろう
―――ゴロウタが預けられることになった商家のある町とは、一体何処のことだったのか。村に住み着いて間もない子供の自分には見当もつかないことだった。
村に連れてこられた自分を真っ先に歓迎してくれたのは、ゴロウタだった。早く落ち着けるようにと、あれこれ気を配ってくれた。あそこで、初めて日常の生活というものを意識できた。
そのゴロウタは他家へ、自分は学校へ―――あの別れの朝、それまで自分たちだけで暮らしてきた二人の子供は、誰も知己のいない所へ赴こうとしていたお互いをどれほど気遣い合ったことか。
―――何故今朝に限って、村の思い出が鮮やかに甦ったのだろう。
左腕の傷痕も落ち着き、ほぼ不自由なく動き回れるようになると、シチロウジは人目につかないように気をつけながら、町のあちらこちらを「探検」して回るようになっていた。
シチロウジの冬眠箱が救出された経緯は、蛍屋の雇い人達の心遣いで周囲には伏せられていたが、年若い男がある日突然店に住み着いたことが辺りに知られてしまうのに、大して時間はかからなかった。
「中々の男前だというじゃないか。とうとう、あのお堅い女将もナニかい・・・」などと物見高い連中は噂したが、ただの行き倒れを拾ってちょっと面倒を見ているだけだと、店の者は答えるようにしていた。
「その行き倒れがヒョイヒョイ跳び回っていては目立ちますねえ」
などと言いながら、シチロウジは毎日のように夜更けを待って出かけて行き、夜明けと競争で戻ってくるのだった。
何処で何をするでもなくただ裏側を歩き回っているだけで、街頭にも出ないし誰かと言葉を交わす訳でもないと説明されて、ユキノは外出することには何も言わなかった。
そのユキノがたまに心配そうな表情を見せると、シチロウジは引っかけた上着越しに左腕の辺りをポンと叩いて「大丈夫。左腕がなくても転びはしませんよ」と笑って見せる。
それを聞くとユキノは、蛍屋に移ってきて間もない頃にシチロウジを襲った発作を思い出し、胸を締め付けられるような気がするのだった。
あれから暫くたって、ユキノは夢の内容を聞かされた―――夢の中の子供があちこちで転んだ、という程度だったが。しかし、それ以上のものが含まれていることは明らかだ。分かってはいるが、敢えてその先は詮索しなかった。話したくないことを尋ねるつもりはなかった。
医者のトウゲンアンは、シチロウジの「探検」についてユキノから相談されたとき、「結構なことだ」と言って笑っただけだった。
「体を鍛え、ついでに市井の暮らしをかいま見る。もっとも、その時間帯にそんなものが営まれているとは言い難いがな・・・・・・何より、考える時間が必要だろう。長時間ひたすら歩き回るというのは、脳が思考と身体の制御を分離する状況を作り出・・・まあいい。歩いている間は、考えることに集中できるということだ」
「歩き回らないと考えられないものですか」
ユキノは、医者が「裏道」をシチロウジに教えたことにもう一度文句を言いたかったが、それが彼のためには良かったのだろうと理解してもいたので、口には出さないことにした。
「小さい子供じゃないから、別段心配しちゃいないんですけどね」
「ならば、黙って送り出してやれば良いのだよ。それより、例の話はどうなっておるのかな。儂は楽しみに待っておるのだが」
医者の口振りは、そんな相談に来るぐらいなら、シチロウジを義手の下見に連れて来いと言わんばかりだった。
ユキノは、あれこれ一人で心配する自分が莫迦らしくなったりもする―――男共はみんな勝手なことばっかり言って、と―――しかし、この平穏さが何より有り難いと、心の底では誰にともなく感謝しているのだった。
「探検」から戻って来たシチロウジが袴の裾を翻してトントンと店の奥へ続く階段を駆け上がっていったところで、丁度起き出してきたユキノと鉢合わせした。
「あ、女将。お早うございます」と少し上気した顔で挨拶を寄越す。
「お帰りなさい」とユキノもいつも通りに笑顔で返し、その夜のシチロウジの出で立ちを眺めた。
「また、板長のお下がりの袴を・・・」
「ええ。これが一番動きやすいんですよ」と、これもいつものようにニッコリする。
シチロウジが蛍屋に来たとき、衣類など新調してくれるというユキノの申し出を断り、丁度不用になったと聞いた板前頭の仕事着を貰い受けたのだった。体型に合わせて身幅を少し狭くして貰って愛用している。
シチロウジが板長のお下がりを貰ったと聞いて店の雇い人達があれこれ申し出てき、結局普段の生活には困らないだけの物が揃ってしまった。
ユキノは、シチロウジが店の者達に受け入れられたのは嬉しかったが、自分の出る幕がなくなったのが少々不満であった。
不満に思うことがもう一つあった―――
「汗かいてますよ」と言いながらユキノが袂から手拭いを出そうとすると、「手拭いなら持ってます」と言って自分のを出すようになったことだ。
ちょっと前までは、こういうとき、黙っておでこを差し出して拭かせてくれたのに・・・
時間が経つにつれて、うち解けるどころか距離を感じるようになったと思うのは、気のせいだろうか。
逆に、店の者達とのやり取りが耳に入ってくる事が増えた。
仲居頭とだったら「シチさん、ちょっとあれ、取っとくれ」
「はいな、おタエさん」とか
「板長、これ、ちょいとつついても・・・」
「おっと、シっつぁん、うっかり指出すと食いつかれるぜ」とか・・・・・・
そういうのと比べてはいけないのだろうか。
いつの間にか「ユキノ殿」から「女将」に変わっているのは・・・・・・
「女将。どうかしましたか」
「あ、いえ。別になにも」
我に返って、額に手拭いを当てる振りのシチロウジに目をやった。
髪がすっかりほどけて肩にかかっている。夕べ後ろにひっつめて結ってあげたのだが、その内、それもさせて貰えなくなるかも知れない・・・
「この頃じゃあ、随分気温も低いでしょうに、何処まで行ってこられたんですか」
「・・・実は、一番上まで行ってきたんです。思い切って町の外に出てみたんですよ。砂漠を見てみたくて」
「・・・・・・そう・・・ですか・・・・・・」
「何か、不都合でも」
「いいえ」と言いながら、ユキノは階段に座り込んだ。
つられて、シチロウジも隣に腰を下ろす。
「いえね、外に出るなんて、ちょっと考えていなかったので」
「・・・・・・さすがにこの時期、夜中の砂漠は冷えました」
雰囲気を変えようとして、シチロウジはことさら明るい口調になったが、ユキノの憂い顔は収まらなかった。
「気にしないで。ホントに何でもないんですから」と言いながら視線を落とす。
町の外に出る―――ユキノは、心にきざした不安に囚われてしまった。
その横顔を、シチロウジは見つめた。
自分を歓迎してくれる人が、ここにも一人・・・・・・
いつも優しく穏やかな顔が曇っている。励ますような視線を投げかける、暖かい濃い茶の瞳が陰っている。気遣いの言葉がこぼれ出る、意志の強そうな口元が不安に閉じられている―――知っていることも知らないことも全部ひっくるめて、自分を丸ごと受け入れようとしてくれるこの女性の。
目の前の存在の全てが、かけがえのない、大切で愛しいものに思われた。
いつになくユキノの横顔に引き寄せられるように、シチロウジはその名前を囁いた。
「ユキノ・・・」
「えっ」とこちらを向いた顔に、もう一度呼びかける。
ユキノの驚きの表情の中に理解が広がっていった。
「シチロウジさ・・・」
シチロウジはユキノを引き寄せると、そっと唇を触れあわせた。
ユキノもそれに答えた。
気持ちがやっと通じたという喜び。胸に暖かいものがこみ上げる。
シチロウジのしなやかな髪が、サラサラと自分の頬にもこぼれかかってくる。その頭に手を回す。また結ってあげたいと思う。その次も。その次も。
しかし幸せに満たされる一方で、不安感は居座ったままだ。
「シチロウジさん」
唇を離すと、ユキノはもう一度愛しい男の名を呼んだ。
「あたしは・・・」
そこで言葉を切り、言葉を継ぐ代わりに、シチロウジを抱きしめた。
体に手を回せば、左腕のない分ひどく細くて不安定に感じられる。それがまた切なさを募らせて、抱く手に力が籠もった。
「こんな事は、言っちゃいけないのかも知れない。でも―――ずっと側にいて欲しい」
シチロウジは自分を抱きしめてくれる華奢な肩に頬を当てて目を閉じた。
ここに、自分を求めてくれる人が・・・・・・この腕の中で、これまでどれ程癒されたことか。
「ここは・・・とても居心地が良い。この腕の中は・・・」
今はそれしか言えないが、それも判ってくれるのだ、この女性(ひと)は。
暫くの間二人は体を預け合ったまま、互いの存在を確かめるように寄り添っていた。
遠くから物の倒れるような音と人々の騒ぐ声が聞こえてきた。どこかで一泊して朝帰りする連中が、もめ事でも起こしたのだろう。
ユキノは、早起きして済ましておかねばならない用事があったことを思い出した。
肩に寄りかかったまま顔を上げると、空色の瞳が柔らかな笑みを浮かべて自分を見つめている。
(地の底に居ては滅多に見られない明るい空の色。この瞳が二度と曇らないように、あたしに出来るなら・・・)
今度はユキノの方から腕を伸ばして、二人は再び唇を重ねた。
「砂漠に出るのは構わないけど―――」
遂に仕事をしなければならない時が来たと観念したユキノは、ことさら真顔を作って言った。
「砂漠には、夜盗やら何やら、誰が潜んでいるか分かりませんからね」といたずらっぽい笑みを浮かべる。
それからちょっとの間シチロウジの顔を見つめ「これを済ませたら、また髪を結ってあげますね」と言って階段を下りていった。
シチロウジも笑顔で答えると、それを見送った。
こんな心持ちになったのは初めてだと、階段に腰掛けたままでシチロウジは自問した。
ユキノの言葉や仕草の一つ一つは、初めから印象的だった。いつの間にか目が離せなくなっていた。
そして、ユキノの気持ちが変化していることにも、いつの頃からか気付いていた。それには正直なところ、どう応じて良いか分からなかった。だから、そこに踏み込むことの無いように、距離を置くようにと気をつけていたつもりだった。それなのに、今、自分から・・・・・・
こういう風に率直に気持ちを表すというのは、何と新鮮な感覚だろう。
―――カンベエ様。
あなたのことを考えているときの私は、何かとてつもなく巨大な物に押しつぶされそうな感覚に襲われます。
たとえ今、目の前にあなたがいなくても。
私の勝手な推測ではなく、本当はあなたがどの様に考えておられたのか、知ることができるなら・・・・・・
立ち塞がる壁を、かつて戦さ場で出会った敵のように、切り払い突き倒して進むことができるなら・・・・・・
思わず見えない槍を構えようとして、シチロウジは左腕がないのを思い出した。
―――決めねばならないことがまだあった。
残った右手を握ったり広げたりしてみる。
自分を取り戻せばすべて乗り越えられると思っていたが、そう簡単には運ばないらしい。
まだ自分を取り戻せてもいないし―――第一、「自分」て何だ―――乗り越えるべき物が何なのかも、実はいまだに解らない。
覚醒して一年。夢を見た秋のあの夜からはまだ二、三ヶ月しか経っていない。無くしたかも知れないものへのこだわりを、まだ解決できずにいる。
左腕を得てまた槍を振るえるようになることが、何らかの助けになるのだろうか。
シチロウジは、ユキノが去った方に視線を向けた。
(終)
(2006.07.01)