華
「その時」は偶然やって来て、偶然故に、思わぬ方向へ飛び去って行ってしまった―――
間もなく春が巡ってくる。
思いがけずシチロウジを預かることになってからおよそ一年と半年。二度目の春だ。
もっとも、自分はおおかた戦さ場にあるから、その殆どはゴロウタが面倒を見てくれていたのだが。
春という季節は元々嫌いではない。殺風景だった空間に多種多様な色が咲き誇り若葉が萌えて、野にも人里にも、雑踏の喧噪に満たされる町にさえ、日に日に浮き立つような活気が溢れてくる。
しかし、この二度の春は、何故かこれまでとは違うように感じられるのだ。
空色の瞳。あの瞳を見ていると、桜匂う春の空を思い描いてしまう。そしてその春になると、空一杯に、薄い青の瞳が広がって――――――
思わずカンベエは溜息をついてしまった。
「あに様、何か良い夢でも見たの」
夢の中のと同じ空色の瞳が覗き込んできた。
「あ、いや、別に・・・・・・つい眠り込んでいたらしいな」
照れ隠しに立ち上がって軽くのびをする。図面と睨めっこをしている内に居眠りをしてしまっていたのだ。
機械工作の専門家ではないから、自力で改良するというのはやはり無理かなと、違うことを考えようとしてみる。
今度の休暇の間に何とかきっかけを掴みたかったのだが、と。
ぶつぶつ独りごちている兄貴分から、シチロウジは目を逸らせた。
このところゴロウタがしばしば持ち出す話題が、シチロウジの中で一人歩きを始めていたのだ。
「シチロウジ、ちょっとこっちへ来い!」
いきなりカンベエの怒声が響いてシチロウジは飛び上がった。こんな厳しい声音は聞いたことがなかった。
見ればカンベエはいつの間にか作業台から離れて、その向こうのシチロウジの寝台の傍らに立っている。
手にしているのが何か分かって、シチロウジの頭の中は真っ白になってしまった。
こちらへ向けられた厳しい視線が、早く来いと言っている。時間を稼ぐようにノロノロと動いてみるが、数歩の距離はあっという間にお終いになった。
カンベエが持っているのは、この前ゴロウタに借りた草紙の内の一冊。
(怒っているところを見ると―――多分。寝台の裏にちゃんと隠したつもりだったのに)
「あ、あの・・・・・・」
顔が、首筋まで熱く真っ赤になるのが分かり、更に恥ずかしさが増して顔を上げられない。
一瞬間があって、カンベエの声が思いがけず優しくなった。
「大声を出して済まなかった。正直、驚いたのでな・・・・・・お前も、こういう物を読みたい、好奇心旺盛な年頃だというのは、ちょっと考えれば分かるものを・・・・・・」
最後は溜息混じりになった。思わず大声を上げた自分を咎めるように。
草紙を寝台の上に置くと、作業台に戻っていった。
(それだけ? それでお終い?)
言い訳する必要が無かったのは助かったが、一方で何か物足りない気がした。
まだ木枯らしが吹き雪が舞っていた頃、荒天で兄貴達が留守にしている時にはいつもそうするように、シチロウジがゴロウタ達の小屋に行って、子供二人だけで遊んでいた。
ゴロウタの寝台に二人して寝そべって話していたとき
「良い物見せてあげる」
秘密めかした含み笑いとともに、ゴロウタが棚の奥の方から一冊の草紙を取り出してきた。
「ある人に貰ったんだ―――そういうことにしといて。シチ坊もきっと見たいと思って。ほら・・・」
体を起こして待っていると、近づけた二人の顔の前で、少しだけ頁を開いてみせる。
好奇心に駆られて無防備に覗き込んだシチロウジは、見えていた文章二、三行を読んだ。
理解しかけたとき、更に頁が大きく開かれて、小さいがはっきり描かれた挿絵が目に飛び込んできた。
「・・・・・・!?」
シチロウジはたっぷり体一つ分後ろに飛び退った。
「ね、ちょっと面白いでしょ」
相棒の反応を楽しみながら、ゴロウタはクククと笑った。
「おいらね、楽しみにしてるんだよ」
言葉を続けながら、ゴロウタは頁を繰っていく。おいでと呼ぶ視線に誘われて、シチロウジは元いた場所に戻り、おそるおそる覗き込む。段々顔が熱くなっていくのが分かるが、見るのを止められない。
「楽しみって、何を?」
「いつかそのうちに、もう少し大きくなったら。シチ坊くらいになったら・・・・・・」
うっとりと視線を彷徨わせる。
「おいらくらいになったら、どうするのさ」
「やだなあ、そんなこと言えるわけないじゃないか」
またクククと忍び笑いを漏らして、顔を赤らめた。
シチロウジはなんと応じて良いか分からず、相棒を見つめていた。すると腕を絡ませて
「シチ坊の方はどうなんだい」と聞いてくる。唐突に話を振られて面食らう。
「どうって、何が・・・・・・」
ゴロウタの言葉が何を意味しているかは分かったが、腕を振りほどこうとする以外、何も思いつかない。
二歳年下のゴロウタが随分大人びて見え、投げかけられた波紋に揺られて、眩暈を起こしそうな気分だった。
「貸したげる。持ってって見て良いよ」
「―――いいよ、いらない。あに様に見つかったら・・・」
「隠しとけば良いさ」
またクククと笑う。
「いいってば!」
そのときはそれで終わったのだが、何回か一緒に見た挙げ句に、数日前、押し付けられるようにして持ち帰ってしまっていたのだった。
「どうした、シチロウジ。今度はお前が夢でも見ているのか」
「あ、ううん、別に――――――あに様」
「何だ」
「あの・・・・・・・おいらがこんな草紙持ってても怒らないの」
「怒る必要があるか」
「・・・・・・」
「そういうのは、他人に見つかったら罰が悪いというだけのことだ。面倒を見ている以上、多少は心配せねばならぬだろうが、お前も順調に成長している証として、俺は歓迎したいと思うがな」
そう言うとカンベエはシチロウジの側に寄ってきて、自分の真似をして髪を短く刈っているというその頭に手を置いた。
「何しろ、一年半前までは―――ああいった身の上だったのだ。こういう『問題』を起こせるようになったのは、むしろ喜ぶべきことだろう。違うか」
シチロウジは頭一つ高い相手の顔を見上げたが、胸が詰まって言葉が出てこずに、俯いて、額をカンベエの胸に押しつけた。
ポンポンと軽く背中を叩かれて、これで十分じゃないかと、自分に問いかけた。
これで良いのだと自問自答したのはカンベエも同様だった。
こうして子供はいつの間にか成長して巣立っていくのだろう。ちょうど自分が今、係累のいないこの村に居を構えて、戦さに明け暮れているように。
そのうち誰か想い人もできるだろう・・・・・・この空色の瞳が見つめる相手が。
育ての親としては―――という程のことはしてやれていないが―――先ずは満足できる成り行きと言うべきではないか。
季節が進み、もうすぐ桜が次々に花びらを開く。そして、空の色もますます柔らかみを増していく。
戦さ場へ戻る支度を終えるため、夕餉の後、カンベエは自分の小屋に戻った。
そう言えば、最近は休暇が取れる度に村に帰ってきている。以前なら年に一度も帰らないことすらあった筈・・・
子供のせいか――――――シチロウジが待っている。稽古をつけて欲しいと、自分の帰りを待っている。待っているのは、実は自分も同じだ。会う度に腕を上げている、その得意げな笑顔を見るのが楽しみになっていた。
そこで思いついたことがあったので、カンベエは小屋の中程まで来たところで立ち止まった。
シチロウジも、考え事をしながらカンベエの後について小屋に入ってきていた。
あに様が出かけてしまう。次はいつのお帰りになるのか。またこれまでみたいに、ゴロウタと二人で留守番だ。
何か言いたいことがあったはずなのに・・・・・・
考え事に気をとられていたので、シチロウジはカンベエが立ち止まったことに気づかず、その背中にぶつかってしまった。
驚きはしたが、肩胛骨の間あたりに額をつけているのが何故か面白くて、ぶつかったままの姿勢で少し体重をかけてみる。先程までの暖かい陽だまりの感触が残っていた。何か安らぐような気がして、このままもたれ掛かっていたいと思った。
背中に寄りかかられたカンベエは、ぶつかってきたシチロウジが驚いて何か言うだろうと思い、間合いをとっていた。しかし、言うどころかかけてくる体重は増えるばかりだ。まさか立ったまま眠ってしまったわけでもあるまいと、からかい半分にじっと前を向いたままで声をかけた。
「寝たのか」
「・・・・・・」
「シチロウジ?」
「・・・はい」
返ってきたのは、思いがけず小さくて可愛い声だった。
振り向くと、支えを失ったシチロウジの頭部が、腕の中に倒れ込んでくる。
「何をやってる。具合でも悪いのか」
「ゴロウタの言ったことを考えてたんだけど・・・」
見上げたシチロウジの頬には笑みの名残があり、微かに紅が差していた。
「熱があるような顔をしているぞ」
そうかも知れない。やっぱり言ってしまおう。
「おいら、この先、またここで―――」
「その事で話がある。学校へ行ったらどうだ、まだ半年先の話だが」
「えっ?――――――学校って?」
「士官学校だ。色々と学べる所だ。武芸も学問も。四、五年かけてみっちりやれるぞ。それに、同じ年頃の学生が大勢いる」」
「おいらは・・・おいらは、あに様について、戦さに行きたい」
「・・・子供が戦さ場に立ってどうする」
「無論、槍を振るう。でなければあに様の手伝いを。元々おいらは、あに様の助手になるはず・・・」
「それは、お前を俺に引き取らせようというヒラザの方便だ。今はもうそんな制度は廃れたし、俺にもそんな考えは無い」
「おいらは・・・おいらは・・・もう子供じゃない」
カンベエは作業台の椅子を引いてきて、一つをシチロウジに勧め、自分は椅子を後ろ向きにして腰を下ろした。
立ったままのシチロウジを見上げてみて、こうしてじっくりと顔を見たことがこの頃は余りないことに思い至った。
顔立ちのせいで線は優しいが、確かに幼さは影をひそめた。背も随分伸びた。しかし、だからといって、はいそうですかと戦さ場に連れて行く訳にはいかない。
「さて、どう話したものかな」
「おいらは、いつも一緒に居たい、一緒にいて色んな事を学びたい、あに様から」
「・・・戦さ場では、人の命を奪い自分は生き延びる、その事で精一杯だ。それに、その年で入隊したら只の新兵だ。俺と同じ部隊に配属される可能性はほとんど無いし、第一、俺がずっと・・・生き延びる保証もない」
これは、シチロウジに少なからぬ衝撃を与えたようだった。
「・・・・・・だったら・・・なおさら・・・」
二人の考えの焦点がずれているのに、ようやくカンベエは気が付いた。
「何が言いたいんだ、シチロウジ」
「・・・自分でもよく分からない」
最近のシチロウジの様子を思い返してみる。先程はゴロウタがどうとかと言っていた・・・
「俺はまたこれから戦さに戻る。二度と会えぬかも知れぬ」
噛んで含めるようにゆっくりと言葉を継いでいく。シチロウジは身動きしなかったが、視線を逸らした。
「学校に行くのが最善とは言わぬが、何れにしろ自立する為の算段を、そろそろ」
話しているうちに次第に、的はずれなことを言っているような気がしてきた。言うべきはこんな事ではない。
カンベエが言葉を切ったので、シチロウジは視線をカンベエに戻した。
「――――――話を変えよう。いいか。この際はっきり言っておく。ああいうことは、俺は必要としていない」
シチロウジはギクッとして、言われたことの意味を推し量ろうとした。
「俺はサムライだ。お前もサムライになりたいと言った。俺にとっては、そういうことは―――多分、お前の言いたいのはその事だろう―――他の者がどう考えるかは知らぬが、そういうことは、サムライであるために重要な事とは思えぬ」
「―――それではまるで、そういうことを軽蔑しているみたいだ」
シチロウジの表情が変わったところを見ると、どうやら核心をついたようだ。この先どう話を持っていくべきかカンベエが迷っていると
「いくらあに様でも、真面目な心持ちを否定するようなことを言う資格なんか無いと思う。あに様にはどう見えるかは解らないけど、誠実な気持ちやいたわりやら、人として大切で良いところがいっぱいあると、おいらには思える」
「待て、そんなことは言っておらぬ。話をよく聞け」
「―――それならきっと、あに様は自分に嘘をついているんだ」
シチロウジが詰め寄る。今度はカンベエがギクッとする番だった。
「言下に是非を言わずあれこれ言い募るときは、カンベエは己を誤魔化そうとしているのだと、いつだったかヒラザのあに様が」
これにはカンベエも参ってしまった。
「子供が、きいた風な事を言うものではない!」
思わず怒鳴りつけた後、カンベエは二重の意味で内心少なからず動揺していた―――激昂して自制を失い大声を上げるなど、滅多にない事なのに、シチロウジに対しては一度ならずあったこと。そしてあと一つは・・・あと一つは何だ?
シチロウジはカンベエの怒声にも怯まず、キッと見返してくる。
「分か・・りました、あに様の考え方。おいらに対する気持ちも。もうこの話は止めます」
「何を一方的に。何も済んでおらぬぞ。第一、一体何について言い争っているのだ。話がずれてしまっていないか」
しかしシチロウジは首を二、三度振ったきり、カンベエの旅支度の仕上げのため、奥の棚に向かった。
「シチロウジ!」
その背中に呼びかけるが、シチロウジは振り向かなかった。。
何故こんなに混乱させられるのだ?
シチロウジは、確かに傷ついている。
どうなっているのだ。このまま戦さに行けというのか。
仮眠をとった後、カンベエとヒラザはまだ暗いうちに、部隊の分派に合流するため出発した。
村外れで見送ったシチロウジは、こう言っただけだった。
「考えてみます、次に会えるときまで」
(終)
(2006.03.27)